Tama’s ゴスペラー日記

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zoom RSS カトリックの友の反論 偶像礼拝について

<<   作成日時 : 2011/11/30 17:13   >>

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 先日「セブ島のキリスト教」についての記事を書いたところ、あるカトリックの友人から熱い反論が届きました。
 カトリックが像や絵画に手を合わせたり、慕ったりするのは偶像礼拝ではない!と。
 当然彼らは偶像礼拝ではないと信じているのでそういう行為をしているわけですから、当然といえば当然の反応でしょう。

 それは聖書解釈の違いから生ずるものであって、偶像礼拝だけの問題ではありません。初代教会が生まれて以来ずっと続いているキリスト教の歴史でもあります。
 その最たる出来事が中世ルネッサンス期に起こった宗教改革でしょう。

 何はともあれ、私の一方的な考えだけではなくカトリック信者がどのような信仰を持っているのかをちゃんと書け、ということですので、まずは私見を一切挟まず彼の考えをそのまま紹介させていただきます。
 セブ島に行って、私が、セントニーニョの前に、行列を作り、その像に触れ、お辞儀をし、手を合わせて、祈ったとしても、それが、聖書で禁じ戒められている偶像礼拝とは判断しません。

 何故でしょうか?

 既に述べさせていただいた通り、カトリックは、聖書のみが信仰の基準であると考えていません。従って、カトリックのクリスチャンが、キリストや、マリア、諸聖人、天使の像を、信仰生活の実践のために、聖書に明確な根拠や基準となる記述がある事を必要としません。

 しかし、聖書のみが、信仰の基準でないにせよ、信仰の基準として、聖書を含んでいる以上、何故、こうした像の使用が、偶像崇拝に該当しないのか?どうして、聖人や、天使に取り次ぎを、求めるのか、その理由が必要です。何故でしょうか?

その理由について、次に述べます。先ず、像の使用の説明をします。そのためには、写真に関する考え、アナロジーが用いられます。

 写真は、一般的に何のために、使われ、どのような働きをなすものでしょうか?
 例えば、単身赴任のサラリーマンが、家族の写真を飾り、持ち歩く事、故郷を離れて生活する人が、親の写真を飾り、持ち歩く事。携帯電話に、家族、友人、恋人の写真を、待ち受け画面として、設定する事は、人として自然で、よくある事です。
 旅先でとった写真を家族や友人、仲間と一緒に見る機会も多いのではないかと推察いたします。
 こうした写真を見る時、私たちは、何を思うでしょう?玉山さんは、何を思われるでしょうか?写真、そのものでしょうか?それとも、写真に表されている人や、出来事でしょうか?

 写真に表されている人や、出来事を思いませんか?

 そして、その写真は、私たちと、そこに表されている人や、出来事とのつながりを深め、豊かにする働きをなします。
 カトリックのクリスチャンが像を用いる時、その像は、こうした写真と同様の働きをします。そこに表されている方や、出来事とのつながりが、深められ、豊かにされます。

 カトリックのクリスチャンが、像を用いる時、その像は、そこに表されている方を、思い起こすための手段です。
 神は祈る人の心を見られます。それは、プロテスタント諸教会でも、しばしば言及される通りです。

 カトリックにとって、礼拝、崇拝の対象は、プロテスタントのクリスチャン同様、真の神のみです。
 像そのものも天使、聖人も、礼拝、崇拝の対象ではありませんし、また、像そのものに、より頼む事もしません。
 また、褒め讃える事と、礼拝、崇拝する事は、区別されます。聖人を褒め讃える事、敬意を示す事、感謝する事は、礼拝、崇拝する事とは区別されます。
 カトリックは、その礼拝であるミサにおいて、天使、聖人とともに、主の祭壇を囲みます。中心におられるのは、キリストです。
 その考えは、新約聖書の黙示録の中に現れています。この数世紀の間、宗教論争で端に追いやられていましたが、真理の柱であり、土台である教会が、キリストが建てられた教会が、古くから、持つ考えです。

 また、キリストを頭として、天国の聖人方をも含めて、我々は、キリストの体です。
 例えば、プロテスタントのクリスチャンが、癒しの賜物を持った人にお祈りをお願いするように、カトリックのクリスチャンは、天国の聖人にお祈りをお願いします。また、共に祈ります。ミサにおいても、日常の祈りにおいてもです。
 カトリックのクリスチャンは、この地上において、天国の聖人とも、心を一つにして、主イエス•キリストの御名によって、お祈りする事が出来ます。真理の柱であり、土台である教会が、天国にいる事を保証している、聖人の祈りは、どれほど、強いものでしょうか?正しい人の祈りは聖書によれば、どのようなものか、玉山さんはご存じと思います。
 天使については、新約聖書にサポートとなる記述があります。ペトロが、監獄にいたはずの時、ドアの外に立っていたのは、ペトロの天使でなくて、ペトロであった事を驚いている様が描かれています。これは、初代教会のクリスチャン達は、天使に、頻繁に会っていた事を示唆します。

 私が、イエス様の十字架の像の前に立つ時、私は、その像を見る事によって、手と足に刺された釘の痛みが、どのようなものなのか、より深く黙想する事が出来ます。
 その傷口に触れ、神の身分であるにも関わらず、私たちと同じように、肉において、苦しみを受けられた、受肉された御言葉を思う事が出来ます。トマスが傷口に触れ、復活を信じた事を思い起こします。見ないで信じる人は幸いと言われた御言葉を思う事が出来ます。私たちの罪のあがないのために、すすんで十字架の道を歩まれたキリストを思う事が出来ます。手を合わせ、感謝し、賛美する事が出来ます。心をキリストに向けつつ、です。
 私が、セントニーニョ像の前に立ち、祈る時、そこに触れる時、私は、聖書に書かれているキリスト者の原則を思い起こします。キリスト者は、キリストに倣うものであるという事。そして、幼子のようにならなければ、天の国に入る事が出来ない、という御言葉を思い起こします。そして、キリストが神の子であり、罪を犯しえず、十戒の全てを守り、地上において養父であったヨゼフと、母であるマリアを完全に敬った事を思います。キリスト者は、キリストに倣うがゆえに、各々の父母を敬いますが、キリストが敬った全ての人をも敬うべきです!だから、マリアとヨゼフを尊敬します。彼らの地上での働きがなければ、諸聖人方の働きがなければ、今の私達はあり得ません。信仰の先輩として、キリストに倣った彼らに敬意を表します。パウロは、自分がキリストに倣っているが故に、自分に倣うように、と新約聖書に含まれる書簡の中で、述べています。私達は、誰に倣うべきか?もちろんキリストに倣うべきを知っていますが、どのようにしてならうべきか?という事については、諸聖人の生涯が参考となります。 (原文まま)

 私たちプロテスタントのクリスチャンは、彼らの信仰と思いをここまで深く聞く機会はなかなかありません。それゆえに彼の熱弁は大変興味深いですね。
 また彼が言う主張の大きなポイントは、聖書のみを信仰の基準とはしない、ということ。上記の文にも記されていますが、さらに
 僕は、聖書にその記述がないから、カトリックの実践する事を、プロテスタントの方々は、行わない、という考えられる事を理解しています。

そして、プロテスタントの、特に福音派の方々が、聖書のみが信仰の基準であると、信じておられる事を、承知します。

 しかしながら、カトリックは、聖書のみが信仰の基準である、という考えを棄却しています。

 理由の一つとして知られている事に、次の考えがあります。

 「聖書のみが信仰の基準であるという考えが、正しいのであるならば、聖書に、聖書のみが信仰の基準であると書いてなければならない。
 しかし、聖書には、聖書のみが信仰の基準であるとは書かれていない。よって、聖書のみが信仰の基準である、という考え自体は自己矛盾である。」

 何故私たちが偶像礼拝にあたる恐れがあるとして行わないことを彼らは是とするのか。これでわかる気がします。
 聖書だけが基準でないならば偶像礼拝についての見解が違ってくるのは当然です。

 ここからは私見。
 ではカトリックは異端なのか?ということ。
 私はそうは思いません。キリスト者とは、
天地万物を創造された唯一真の神を信じ、自分が神から離れた罪びとであることを自覚し、御子イエス・キリストのみがそこから救ってくださる救い主と信じる。そして神のご性質が父・子・聖霊の三位一体であることを信じる者。
 です。その意味でカトリックもプロテスタントも同じ信仰なのです。
 ですから私たちはイエス・キリストにある兄弟姉妹だと思っています。違いはたくさんありますので、それをつつきあっていたら喧嘩になり、それが高じると民族間や国際紛争にまでも発展してしまいます。それこそイエス・キリストの十字架の死と復活の意味を無にすることになってしまいます。残念ながら過去の歴史ではそういう過ちもたくさん犯していますね。
 そういう意味では、「セブ島のキリスト教」の記事の一部記述ではカトリックの友の心を傷つけてしまったかもしれません。その点はお詫びしたいと思います。

 ただ彼の反論を読んでも、セントニーニョ崇拝や守護聖人などといった考え方はNOという私の考えは揺るぎません。ですから私は一部に見られるエキュメニカル(教会一致運動)主義ではありません。
 しかし主にある大事な兄弟がこれだけの熱意と労力をかけて私に送ってくれた主張を無にするつもりもありません。
 なぜならすべての審判者は神のみであり、主イエスの再臨の時に初めて明らかにされることですから。
わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られるように、完全に知るであろう。      
(コリント人への第一の手紙13:12)

 最後に主イエスご自身の言葉を紹介したいと思います。
わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
互いに愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。
  (ヨハネによる福音書13:34〜35)


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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
アーメン。
私はプロテスタントの信者ですが、改めてカトリックとの相違を確認できました。
聖書のみを信仰の基準としない、これ自体が正反対ですから、この事については触れない方がよさそうですね。

良きアドベント、クリスマスをお迎えください。
テケテケ
2011/12/01 16:20
>テケテケさん
コメント有難うございます。
おっしゃるとおり、基準が違うのでその部分を議論してもずっと平行線です。
ですから一致している部分で認め合い、愛し合っていくことが大事だと思います。
たま
2011/12/01 19:22

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