Tama’s ゴスペラー日記

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zoom RSS 幼子のように純粋な信仰の賜物

<<   作成日時 : 2014/05/16 23:48   >>

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 前の記事の続き。聖会でのお話です。
 第2聖会でのメッセージに続き、若い世代と献身の召しを受けている人たちへの招きまではシェアさせていただきましたので、よろしければそれを先にお読みいただいてから本文を読まれた方がいいかと思います。(⇒こちら

 さて次にY先生は、からだと心の病からの解放を神に求める招きをされました。
 彼は公に自分が癒しの賜物を持っているなどと宣言しているわけではありません。しかし先生ご自身が弱くて臆病な牧師だった(自ら証しされました。)のに、自らの心を塞ぐ墓石を聖霊によって強引に取り除いて頂いたことで、先生の祈りに聖霊が豊かに働かれて、驚くべきことに次々に祈りを通して癒しの御業が現れるようになったそうです。
 ですから先生は、幼子のように素直に主を信じる信仰、幼子のように自分は弱いのだと認める信仰がなければ癒しは起こらないと再三語られました。
 更には、

「私が癒すのではありません。聖霊が癒してくださるのです。」


 ということを何度も強調されました。
 私はその姿勢に本物の信仰者としてのあり方を学ばせていただたように思います。

「私は死人を400人以上甦らせた」とか、「私が祈ればどんな病でも癒される」とか声高に触れ回っている牧師もいて、それを鵜呑みにしてその牧師を特別視するカリスマ、ペンテコステの風潮が一部にあります。
 しかしその牧師がそう言っている時点で、主体は「自分」になっており、明らかに神不在です。もし死人が甦るのならそれをされるのは神。もし病が癒されるならばそれをされるのも神であって、その牧師ではありません。
 神をダシに使って自分に栄光を帰しているその姿は、魔術師・シモンを思い起こさせます(参照:使徒行伝8:9〜24)。
 結果的に彼(シモン)は救われました。しかし救われた後も古い習慣が抜けきらずに、ペテロに激しく叱責されてようやく悔い改めたようですが。

 それはさておき、招きに応じてステージの前には癒しを求める多くの人々が集まってきました。
 Y先生は聖霊が示された人を更にステージ上へ招きました。
 それぞれ違う病に苦しむ人々でしたが、先生が指摘する共通のポイントは「幼子のように純粋にイエス・キリストを信じているか」ということでした。
 聖会に来ているのはほとんどクリスチャンですから、イエス・キリストを信じているはずです。でも

「病はからだが蝕まれることだけで悪くなるのではありません。」

 Y先生は言いました。

「あなたにはイエス・キリストよりも大事にしているものがあるんじゃないでしょうか。そしてイエスが全能の神であること、不可能なことがない神であると心から信じていないんじゃないでしょうか?」

 グサッとくるチャレンジです。
 私たちは自分の信仰を顧みる時、この問いに頷かざるをえない弱さを持っていますよね。
 Y先生はご自身の内側にある弱さを知り、しかしそれを持ったままでも愛し続けて下さり、手を差し伸べ造り変えて下さる神を体験しておられるのです。
 だから肉も霊も弱り問題を抱えているクリスチャンに、ただ純粋な信仰によって聖霊が激しく臨むことを知らせたいのだと思いました。その結果、神の御心ならば病の癒しの御業として現れるのでしょう。

 ですから先生はほとんど癒しを求める人に触れません。
 基本は純粋な信仰告白への強い促しと、祈りだけです。
 そのことによって、舞台に上げられた3人のうち2人は私の目の前で神からの癒しを受け取りました。しかしもう1人は癒されませんでした。本当は自分でわかっているはずなのに、それを素直に認められない悪習慣があったからのようです。

 Y先生は「自分に癒しの賜物がある」とか、「必ず癒される」とかは一切言わずに、
「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」。
(ヨハネによる福音書11:40)

 という主イエスの御言葉をひたすら宣言され、神に栄光を帰されていました。

 主イエスがなされたラザロを甦らせるというしるしや、多くの病んでいる人々を癒されたしるしの目的。それは彼が人であるけれども全能の神であることを明確に示すためでありました。
 ですからラザロが甦るということは主イエスの復活の予兆として神が実行されたことであり、主イエスの復活以降にはありません。仮にあったとしても甦った人も必ずまた死ななければなりませんから、信仰により主イエスにあって与えられる永遠の命を得なければ空しいのです。
 死人から甦ったけれど、イエスを信じなかったために永遠の地獄へ行くとしたら本当に空しいことです。
 病の癒しについては、神の憐れみによって御心ならば今でも起こりますが、癒されてもいつかは必ず死を迎えます。死人の甦り同様に、主イエスにあって与えられる永遠の命を得なければ空しいのです。

 私たちの救いとは、断絶していた創造主である真の神との関係が主イエスの十字架の刑罰によって回復させられ、彼を信じる信仰によって神の子とされて、主イエスと共同の相続人として永遠の神の御国を受け継ぐことです。
これは、その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである。
(エペソ人への手紙1:6)

 クリスチャンはこの救いの奥義とをしっかり理解しなければなりません。
 そうしないと、本当の救いではなく、病の癒しや、経済的祝福や、社会的地位の向上や、家族円満といった「幸せ」を人生の目的にすり替えるという大きなズレが生じてしまいます。
 これではご利益宗教となんら変わらない偽物の福音です。これらの「幸せ」は本当の救いを頂いた結果の祝福として、御心ならば神が与えて下さる恵みであって、目指す目標ではありません。

 しかし本当の救いではなく、病の癒しや、経済的祝福や、社会的地位の向上や、家族円満といった「幸せ」を人生の目的にすり替える偽の福音は、耳に甘く魅力的に感じられます。だから「繁栄の神学」と呼ばれる非常に危険な教えが世界的に拡大してしまいました。
 良い麦も毒麦も、外からは見分けがつきません。毒麦の方が良い麦に見えてしまう事さえあります。神は良い麦が誤って抜かれてしまわないため毒麦もそのままにされますが、終わりの時に毒麦は確実に集められて火で焼かれるのです。(Ex.マタイによる福音書13:24〜42)

 第2聖会は、このような誤りがないように、ただ神の栄光だけが現れることを祈り求めた土台の上で行われたメッセージと、癒しの時でありました。
 神の力強い御言葉と、癒しに与り、信仰者としての歩み方を新たにされた人がたくさん起こされた大きな恵みの聖会。
 奉仕者として加えて頂けたことを主に感謝いたします。

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