Tama’s ゴスペラー日記

アクセスカウンタ

zoom RSS 新生

<<   作成日時 : 2013/08/11 23:12   >>

ナイス ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0

 今日の礼拝の中でひとりの姉妹の洗礼式が執り行われました。
 この姉妹はICGCのメンバーで、ゴスペルミニストリーを通じて救いに導かれた大切な姉妹です。
 今日もとても喜ばしく、感謝と祝福に満ちた素晴らしい礼拝であり、洗礼式でした。

画像


 様々な事情が重なったのですが、朝10:30〜のメインの礼拝の中で、というのは我が教会では珍しく、これも結果的には大きな意味を持ったと感じました。
 それは出席者が一番多い集会なので、多くの教会員と求道中の方に、ひとりの人がイエス・キリストにあって新生する瞬間の証人となってもらえるという事です。

 毎週礼拝に出席していながら、洗礼については沈黙を守っているご家族。

 アップダウンしながらも懸命に神を求めて礼拝に来ている男性。

 礼拝だけ出たらほとんど誰ともしゃべらずに帰ってしまう信徒さんたち。

 ICGCのメンバー。

 子供たち。

 たまたま初めて出席した方たち
etc....

 教会はキリストの体であって、有機体ですから、その中で救いの御業がどのように起こって実を結んでいくのか。それは「百聞は一見にしかず」
 聖霊はそれぞれに働かれ、個人的に語られたことを信じます。

画像


 洗礼式の前に取り次がれた佐布先生の説教は、先週からスタートしたヨハネ福音の講解説教で、先週の緒論的な1章の内容の続きでありました。
 しかも計算し尽くされたように、バプテスマのヨハネがバプテスマ(洗礼)の意義を語りつつ、イエス・キリストがどのような方かを紹介する記事(ヨハネ1:29〜34)をメインに、実に見事に縦横無尽に聖書をひも解きながら洗礼式につなげていくという深いメッセージでした。

 これはあくまでも私個人が聞き取り、咀嚼してまとめた説教のまとめですが、シェアさせて頂こうと思います。
命に与るバプテスマ
聖書箇所:ヨハネによる福音書1章29〜34節
説教者:佐布正義師

 バプテスマのヨハネは、祭司ザカリヤの子で、モーセの兄アロンから約1500年続く祭司の家系に生まれました。
 ヨハネと言う名は祭司の家系にはない名前で、ザカリヤはそれゆえに御使いからその名を告げられた時に承服しかねる態度を取りました。
 しかしヨハネは祭司としてではなく、旧契約下の最後の預言者としての役割、イエス・キリストを紹介する役割を果たすために神から派遣されたのであります。
 高齢だった両親のもとに生まれたヨハネは、当然ながら幼いうちに両親と死別したのでしょう、荒野で生きていくという特異な生い立ちの中で成長しました。
 そして彼は、神から乖離したイスラエル(ユダヤ人)に対し、

「悔い改めよ!」(マタイ3:2)

「まむしの子らよ!」(マタイ3:7)

と痛烈に批判します。
 「イスラエル」というのは第一義的にはイスラエル民族を指しますが、新約の時代である現在は「神の子たち」を意味しますので、これは神から乖離したすべての人のことであると言うことが出来ます。
 これは悔い改めを促す大変厳しい警告であります。

 ヨハネは悔い改めのために、水でバプテスマを授けました。彼が初めてバプテスマを行ったのです。
 水に入るというのは、象徴的、シンボリカルな行為です。
 聖霊によって清められ、新しく生まれるという儀式であります。
 ですから水にジャボンと浸かったからといって、本当に人の内側が聖くなるわけではありません。イエス・キリストによって霊的に生まれ変わらなければきよめられないのです。
 ですからヨハネは、このイエス、すなわち「世の罪を取り除く神の小羊」を紹介するために派遣されたのです。

 イエスはご自身で後に、

「だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。」(ヨハネ3:5)

 とおっしゃいました。しかしヨハネはイエスをこう紹介しました。

「このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。」(マタイ3:11)

 こう比べてみると、それぞれの言っていることに少し違いがあるように思えますね。
 
 まず最初のイエスのお言葉ですが、イエスは神ですから、本来悔い改めのために水でバプテスマを受ける必要はありません。しかしその模範を示すためにあえてヨハネから受けられ、水のバプテスマと、聖霊によってご自身こそが救い主であることを悟ることで新しく生まれるのだ、とおっしゃったのです。
 一方、ヨハネの言う「火」とは、はっきり言って神の裁きを意味しています。(参照:マラキ書4章)
 マタイ13章の毒麦のたとえを思い出してください。収穫の時に毒麦は集められて火で焼かれます。(マタイ13:30)
 ですから、「クリスチャン」と呼ばれている人すべてが神の子とされているわけではないんですよ。本物と偽物は必ず仕分けられるという事です。
 イエスはこのために来られたのだ、とヨハネは紹介しているのです。

 さてバプテスマについてもう一つの側面についても見てみましょう。ルカ12:50を開いて下さい。

「しかし、わたしには受けねばならないバプテスマがある。そして、それを受けてしまうまでは、わたしはどんなにか苦しい思いをすることであろう。」

 これはいったいどういうことでしょうか。
 イエスが受けなければならないバプテスマ。それは十字架です。それは私たち一人一人の罪を処分するために身代わりとなって処分されるという法的な手続きなのです。
 血みどろになり、人々の罵声、嘲笑を受け、それはそれは苦しいバプテスマです。しかしそれは「受けねばならないバプテスマ」だったのです。
 なぜですか?
 私たちが新しい命を得るために、です。

 ガラテヤ人への手紙3:27を見て下さい。

「キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。」

 私たちの過去は、世の中のファッション(価値観)を身につけて生きていました。でも聖霊によって、水のバプテスマによって、これからはイエス・キリストを着るのです。
 
 もう1か所、ローマ人への手紙6:3を開きましょう。

「キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。」

 イエスの死と引き換えに、私たちは永遠の命、すなわち神の子というキャラクターを頂くのです。世の中には「ゆるキャラ」なんていうのが流行っていますが、そんなキャラクターじゃなく、イエスのキャラクターですよ

 これからS姉妹が受けられるバプテスマとはこのような意味があるのです。

 それでは幸いな洗礼式に移りたいと思います。

画像


 水のバプテスマに至るには、聖霊の働きがなければなりません。
 今まで彼女がICGCで賛美してきたゴスペルに働かれる聖霊、リハや礼拝で語られる聖書の御言葉に働かれる聖霊、クリスチャンたちとの交わりの中に働かれる聖霊によって、イエス・キリストこそ救い主だと悟り、信じ、罪を悔い改めてこの日を迎えたのです。

 私は、今までは救われた人が起こされると、実に単純に喜び、感謝し、感動に浸ってその日を祝っているだけでした。
 しかし今日はそれに加えて、新生した愛する兄弟姉妹たちがこの世の生涯を終える時まで、キリストの体であるエクレシア(教会)にしっかりつながり続け、御国に凱旋するまで共に歩みサポートさせていただきたい、と決意を新たにしたのでした。
 もちろんこの地上において、いつまでも一緒に同じエクレシアで過ごし続けることはそうあるものじゃありません。でも、神によって出会わされ、神の家族として結び合わされた者として出来る限りのことをさせて頂けたら・・・と願うのです。
 

よろしかったらクリックをm(__)m にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
ナイス ナイス

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
新生 Tama’s ゴスペラー日記/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる