Tama’s ゴスペラー日記

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zoom RSS 神への賛美について考えてみた

<<   作成日時 : 2013/01/26 02:44   >>

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かの時には明けの星は相共に歌い、
神の子たちはみな喜び呼ばわった。

(ヨブ記38:7)

 ICGC10周年を迎える今、その歩みを振り返る機会を得ています。
 その中で思わされることは色々あるのですが、そのひとつは、人間には歌いたいという本能が神によって植えられているのだ、ということ。

 赤ちゃんは7ヶ月8ヶ月になってくると、何か歌うように喋っていたり、音楽に反応して踊ってみたりしますよね。
 巷にはカラオケボックスがあふれていますし、それは日本だけのことではなく、世界中どんな民族でも歌が必ずその文化の中にあふれています。
 歌が苦手・・・ という人は結構いますが、そういう人でも

「あんなふうに上手く歌えたらな〜」

 とか必ず思ったことがあるはずです。
 また、歌でなくても楽器を奏でることが大好きな人もいますよね。

 冒頭の聖書の言葉は、ヨブという人に対し神が言われた言葉の一部です。
 「かの時」というのは、その前の個所を読むと神が天地創造された時だということがわかります。その時星と天使たちが喜び歌った、と神ご自身が言っておられるのですね。
その弟の名はユバルといった。彼は琴や笛を執るすべての者の先祖となった。
(創世記4:21)

 そして人類最初の殺人を犯したカインの系図ではありますが、創世記の4章にはユバルというミュージシャンの元祖の誕生が記述されています。
セツにもまた男の子が生れた。彼はその名をエノスと名づけた。この時、人々は主の名を呼び始めた。
(創世記4:26)

 さらにアダムの系図であるエノスの時から人々が神を礼拝するようになったことがわかります。

 こうしてみると天地創造から人類のごく初期においてすでに音楽があり、神をほめたたえるためにそれが自然に用いられたことが窺えます。

 そしてイスラエルの民が奴隷となっていたエジプトから脱出した際にも賛美がありました。
そこでモーセとイスラエルの人々は、この歌を主にむかって歌った。彼らは歌って言った、
(出エジプト記15:1)

 さらにミりアムという女預言者はタンバリンを持って神を賛美し踊るのです。

 ダビデ王の時代には大クワイアが結成されました。
ダビデは言った「そのうち二万四千人は主の家の仕事をつかさどり、六千人はつかさびと、およびさばきびととなり、 四千人は門を守る者となり、また四千人はさんびのためにわたしの造った楽器で主をたたえよ」
(歴代誌上23:4〜5)


 このように人間にとって神を音楽で賛美することがいかに自然で大事なことだったのか。聖書を読めば読むほど私の内側でクローズアップされるのでした。

画像


 先日のICGCのリハの中で、関口先生が詩篇148篇からメッセージをされたのですが、この詩篇では日、月、星や獣や家畜までも神を賛美せよといっているのですね
 そして
若い男子、若い女子、老いた人と幼い者よ、
彼らをして主のみ名をほめたたえさせよ。
そのみ名は高く、たぐいなく、
その栄光は地と天の上にあるからである。

(詩篇148:12〜13)

と宣言しているのです。

 心が震えました。

 そうです。神が創造されなければ、これら被造物は私たちを含めて何一つ存在しません。創造され生かされているから創造主を賛美するという当たり前の構図がそこにあるのです
 そして老若男女あらゆる年代、あらゆる立場が集まって同じ神を賛美し礼拝する場所こそ教会=エクレシヤではありませんか

 また私たちが一致して神を賛美する時に凄いことが起こります。
ラッパ吹く者と歌うたう者とは、ひとりのように声を合わせて主をほめ、感謝した)、そして彼らがラッパと、シンバルとその他の楽器をもって声をふりあげ、主をほめて
「主は恵みあり、
そのあわれみはとこしえに絶えることがない」
と言ったとき、雲はその宮すなわち主の宮に満ちた。 祭司たちは雲のゆえに立って勤めをすることができなかった。主の栄光が神の宮に満ちたからである

(歴代誌下5:13〜14)

 全身全霊の一致した賛美と礼拝をささげた時に立っていることが出来なくなる・・・ というか圧倒的な聖霊の臨在に倒されてしまう。そんなことをゴスペルミニストリーに導かれてから私は何度も体験しました。
 おそらくそれは地上で私たちが経験するどんな体験よりも幸せな時間であるように思います。

 でも私たちは神から離れようとする罪性を持った弱い者で、自分を襲う何らかの問題が目の前にあると、喜び、感謝して賛美したり礼拝したり出来ないことも事実です。
 ここからが真の意味で「信仰」の領域に入るのですが、賛美をささげるということには犠牲が伴う「いけにえ」だと聖書は言っているのです。
だから、わたしたちはイエスによって、さんびのいけにえ、すなわち、彼の御名をたたえるくちびるの実を、たえず神にささげようではないか。
(ヘブル人への手紙13:15)

 クリスチャンは真の礼拝者であることを神から求められています(cf. ヨハネによる福音書4:23〜24)
 礼拝は神への感謝、賛美、敬拝ですから、礼拝では必ず全会衆で賛美がささげられるわけです。
 クリスチャンは自分が行きたい時だけ、歌いたい時だけ礼拝し賛美するのではなく、コンディションがどうであれイエスが復活された日曜日に教会に集まり神を賛美し、礼拝する者なのです。
 例えば、1週間仕事でクタクタに疲れて日曜日しか休みがなかったとしたら、朝起きて礼拝に出かけていくことはきついですよね。でも神は私たちを愛して下さって永遠の神の子としてくださいました。クリスチャンはその愛に応答した者です。その応答こそが礼拝です。
この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。
(ペテロの第1の手紙2:4〜5)

 しかしそのいけにえ(犠牲)により私たちは「生ける石」となって「霊の家に築き上げられ」ると言いますから素晴らしいですよね。賛美の究極の目的がここに集約されているように思います。

 賛美とは学べば学ぶほど奥が深いですね。そして人間に与えられた最高の神とのコミュニケーションツールということが出来るでしょう

 聖歌、讃美歌、プレイズ&ワーシップ、ゴスペルミュージックなど音楽的な多様性を認めつつ、偉大なる神を御許に行くまでほめたたえていきましょう

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コメント(8件)

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申し訳ありません

僕は、或る教会でクリスチャンから否定を受けてから、礼拝にも讚美にも糧や価値観を見出だす事が出来なくなるました

この記事を拝読して思うのは "無意味" と "羨望"です

どうしたら主に依存出来て信頼出来るのか?
どうすればそれを得られるのか全く分かりません
このようなコメントしか出来ないですが、上記の事を知りたいと感じます
KAZ
2013/02/03 12:55
KAZさん
コメント有難うございます。
教会でクリスチャンから否定されるというのは傷つきますよね。
相談できる牧師さんや、信頼できるクリスチャンの友達はおられませんか?
もしおられたら、あなたの負った傷について打ち明けて祈ってもらってください。
もしおられないならば、賛美が盛んで御言葉がストレートに語られる教会に行かれてみたらどうでしょうか。住んでおられる地区がわかればご紹介できるかもしれません。
人は不完全ですが神は完全で、あなたが傷ついていることに心を痛めておられると思います。
賛美と礼拝で傷を負ったわけではないですよね?
心からの賛美がある場所、礼拝する場所に神は聖霊を送ってくださり、賛美者・礼拝者に力を与え、慰め、諭しを与えてくださいます。
たとえ人と深く接しなくても、まずはそのような場所で礼拝することをお勧めしたいです。
勇気が与えられるように、心が癒されるようにお祈りいたします。
たま
2013/02/05 14:48
コメントの承認もなく、失意に居ます

やはり私みたいのは受け入れられないアウトローみたいですね

KAZ
2013/02/10 00:02
>KAZさん
コメントを下さったのですか?
確認したら上記のコメントしか見つかりませんでした。
すみません。

先の私のコメント内容にだぶりますが、貴兄の教会の牧師に話を聞いてもらいましたか?
まずは所属教会の先生に相談に乗ってもらうことが一番です。それはあなたを養い導くために神から立てられたのが牧師だからです。
回復をお祈りしています。
たま
2013/02/10 21:48
それは失礼しました

こちらの投稿ミスかもしれません

私は、或る信仰の深いクリスチャンから受けた人格否定により、聖書にもクリスチャンにも神にも疑いを持ちました

私が喫煙者である事を"主に背く悪の行為を行う悪の存在" とされ、教会奉仕は全て自己顕示欲による偽善とされ、私が使う睡眠導入剤も "主に依存しない" と否定されました

それらを引きずり、受洗した教会に行きましたが、どうしても教会の人達に或るクリスチャンを見てしまい、信頼を持てず、今では存在を消されています

牧師とも話しになりません

だから、今の私はクリスチャンでありながらアンチクリストです

自分でもキリスト教から離れたら平安になると思いますが、、 それも出来ません

困りモノです
KAZ
2013/02/10 23:54
私は東武東上線の常磐台に住んでいます
板橋区です
KAZ 追伸
2013/02/11 00:00
間違っていたらすみません。
今井君ではないですか?

だとしたら牧師先生は全身全霊であなたを愛し、導いていたように感じますが。

別人でしたら的外れなコメントで申し訳ありません。
いずれにしても、ここのコメントのやり取りではあなたの苦しみを解決することは出来ません。

大変なこととは思いますが、福音的な教会を訪ね、人を求めるのではなくただ礼拝をし賛美をし、ということをしてみてください。
それでもアンチキリストならば、私には祈ることしかできません。それが最大限の出来ることです。
たま
2013/02/11 00:23
今井君、って

もしかして“えびせんZ“さんの本名ですか?

えびせんさんのブログから来ました
KAZ
2013/02/12 16:02

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