Tama’s ゴスペラー日記

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<<   作成日時 : 2012/11/07 16:04   >>

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 福音伝道に携わってから、心に深い傷を負っている人と接することがとても多くなりました。
 教会でゴスペルを歌ってみたいと思って来る人、教会の礼拝に自らやって来る人というのは、何らかの問題を抱えていることが多いのです。
この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである
(使徒行伝4:12)
 
 イエス・キリストのみが私たち人間を救ってくださる唯一の方なので、この方の愛に倣って新しく来られた人に接し、キリストを伝えるように日々切磋琢磨してるところです。

 心の傷にもいろいろなものがありますが、その大半は、愛の欠如、裏切り、無理解、いじめであると感じます。その結果それをもたらした相手を憎み、許せないという感情が心の深い部分にデンと居座ってしまいます。
 神は人間の心に防御本能を与えておられて、その感情が表面化しないように普段はそれを覆い隠してくれています。
 しかし何かのきっかけで過去の振り返ったり、またはその人に会ってしまったり、過去に傷つけられた出来事に似たケースに遭遇すると覆われていた感情のベールがはがされてしまい、猛烈な憎しみや怒りが表出するということが起こります。
 すると感情の制御が利かなくなり、「自分など存在しないほうがいい」、「あんな奴は殺してやりたい」、「誰も自分のことなどわかりはしない」などといった思いが激しく交錯するのです。

 これを解決するには、決して裏切ることのない神の愛、イエス・キリストの十字架と復活を知るしかないのですが、彼らはまず人間に傷ついているので一足飛びに目に見えない神に目を向けることがとても難しい。
 まずは人間から愛を受けて人間不振を払拭することと同時進行で神との関係を築かなければなりません。

 ではどうしたらいいのでしょうか。

 私の体験から述べさせていただくとそれは、傷ついた魂に徹底的に寄り添うこと。

 その人がどんなに不安定であっても、ありのままを認めて受け入れることから始まります。

「この人は私を否定しない。」

 そのようにその人の霊が感じ取らないと自分の心を開くことが出来ません。でも自分が受け入れられていることを感じたら、徐々に心が開いていき、初めて心の内側の傷を見ることが出来るようになり、私にもそれをぶちまけてくれるようになります。
 これは本人にとっても、私にとっても辛い作業ですが、この辛い作業を繰り返すことで本当に自分を苦しめている問題は何なのか、言い換えれば戦うべき相手は誰なのかが明確化されるのです。

 
 数日前にこんな記事をインターネット上で見つけて暗澹たる気持ちになりました。
 多分どこかの牧師が書いたものだと思われます。
 その人は自分を傷つけた人を許すことが出来ず苦しんでいる人を対象に、「許しと解放のセミナー」を開いているそうです。そこでは、
「あなたを傷つけ苦しめた人を許すことであなたは解放される」
 と聖書の御言葉を基に説いています。
あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう。
(マタイによる福音書18:35)

また立って祈るとき、だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。そうすれば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださるであろう。
(マルコによる福音書11:25)

人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。
(ルカによる福音書6:37)

 このように許すことがいかに大事なのか。聖書の御言葉は神の言葉で真実であります。
 しかし次のシーンに「あちゃーと思ってしまいました。
 }このセミナーでは、許しの宣言をしていくと言うのです。

「私は○○さんを許します 

 すると会場に詰め掛けた参加者が口々に同じように叫び始めた。一種の集団心理ですね。
 すると悪かった体の部分が癒された人も現れた・・・ だからあなたもあなたを傷つけた人を「許します」と宣言しましょう・・・

 私がこの記事でなぜ暗澹とした気持ちになったのでしょうか。
 それは正義という名の下に、深手を負っている人をさらに傷つける可能性にまったく気付いていないことなのです。
 確かにこの話を聞いて、心から相手を許したいと思えた人がいたのは事実だと思います。癒された人もいたことでしょう。
 でもそれは信仰が厚く、傷も比較的浅い人でしょう。
 深く傷ついている人は、「宣言しましょう」と言われたら無理にでもしなきゃと思いますし、宣言したとしても実際には許せていない自分に気付き、御言葉を実践できない自分の現実を突きつけられるのです。頭では許さなければならないと理解できても心がついていかない。だから自分を責め始めます。
 こういう人たちは受けた傷によってセルフイメージが著しく低いですから、傷はさらに深くなって苦しみが増してしまいます。
 私たち伝道に携わる者は、こういう想像力を持たなければならないと痛感します。

 セミナーをする側は楽ですよ。
 御言葉を語って、励まして、大きな声で宣言させれば、ひとりひとりの傷に向き合う必要もありませんから。
 だから、
「ハレルヤ〜 解放されました

「癒されました

 という数人の反応を見て、これからもこういうセミナーを開き続けるんだろうなと危惧します。
 しかしこれはあくまでもひとつの方法であって、すべての人に適用できるわけではありません。

画像


 まずはひとりの傷ついた魂にキリストの愛を注ぐこと。
 ひとりの人間としてその人を受け入れ、愛すること。
 人間は不完全ですが、神はあえてその不完全な人間を召し集めてエクレシヤ(教会)を建てて下さいました。
 それは私たちが受けた神の愛で愛し合う共同体として建てて下さったのです。
わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。 互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう
(ヨハネによる福音書13:34〜35)

 エクレシヤの中で注がれた愛を体験することで、目には見えない神の愛が漠然とした理念的なものからリアルなものに変えられていきます。
 それには時間が必要です。焦らずじっくりと愛を体験する期間が不可欠なのです。
 カラカラに乾いていたその人の心が徐々に愛で潤されていったら、聖霊に促されて真に「あの人を許したい」と思わされる時が来ます。
 それまで愛の共同体が寄り添い支え続けるのです。

 私はまだまだ未熟で訓練中の者であり、人の心に対する想像力に欠けるなー と自分の単純さにあきれてしまうことも多いのが現実なのですが、気付いた違和感については勇気を持って発信することが責任だとも感じます。

 ひとりでも多くの傷ついた魂がイエス・キリストによって救われ、癒され、解放されるように祈りつつ。

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内 容 ニックネーム/日時
私自身、うつ病でニート生活を送っていたこともあり、記事を読みながら胸に響きました。心に深い傷を負った経験は、今となっては宝物ですし、その経験がなければ、人の痛みさえも分からない人間になっていたんだろうなーと感じます。
フランクリンプランナーに挑戦中
2012/11/15 22:45
>フランクリンプランナーに挑戦中さん
お読みいただき有難うございます。
辛い経験をなさったのですね。
それが癒されつつあるようにお見受けします。
その傷がキリストの愛によって完全に覆われ、癒されますように。
たま
2012/11/16 02:07

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