Tama’s ゴスペラー日記

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zoom RSS 「人間の究極の幸せの4項目」にある落とし穴

<<   作成日時 : 2012/06/23 12:10   >>

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 昨日何気なくFacebookを見ていたら、こんな本のページの写真がアップされているのが目に留まりました。そしてそれを読んだクリスチャンたちの反応に驚きました。

画像


 これをアップしたのはクリスチャン。それに対して多くのクリスチャン、中には牧師までが「いいね!」を押してるのを見て愕然としました。

 これが何の本なのか全く明らかにされていませんでしたが、私はとてもやりきれない思いになってしまいました。
 人間の究極の幸せは、

1.人に愛されること
2.人にほめられること
3.人の役に立つこと
4.人に必要とされること

 2〜4については働くことによって得られる

 あまりにも気持ち悪かったので、家に帰って調べてみると、日本理化学工業株式会社という企業の会長、大山泰弘氏の「利他のすすめ〜チョーク工場で学んだ幸せに生きる18の知恵」という著書の引用であることがわかってきました。

 この会社の74人の従業員のうち55人が知的障がい者で、しかもそのほとんどが重度の障がい者だそうです。
 この会社が知的障がい者を雇用することになったのは  1959(昭和34)年。養護学校の教師が、卒業を控えた15歳の女子生徒の就職を頼みに来たことから始まりました。
 最初は2週間の研修員として2人の少女を受け入れた大山氏でしたが、一生懸命に働く2人の姿に心を打たれ、次第に障がい者を雇用するようになったのですが、軽量計りの目盛りが読めない、チョークを箱詰めするのに本数が数えられない等々、想定外の連続で、大山氏もくじけそうになったそうです。
 それでも黙々と働き続ける彼ら。雇用は続けたいが、会社を潰すことはできない。そんな悩みを、ある禅寺の住職に打ち明けた時に言われたのが、この「人間の究極の幸せ」なんだそうです。

 確かにあくまでもそういう背景においては、障がい者の方々に生き生きと働いてもらうためにもっともなことだとは思います。またこの企業の取り組みは素晴らしいと思います。
 しかしこれを人生訓的に一般化し、教訓として適用してはいけません。
 一見「なるほど〜」と思わせる4項目の背後には、サタンが仕組んだ暗闇が隠れていることを見落としてはならないと思います。

 私がこの4項目を一般化した場合に生じる疑問としてすぐに感じたのが、もしこれに当てはまらない人は「究極の不幸」ってことか?・・・という疑問。
 言い換えればこの4つのハードルがクリアされないと幸せじゃないってことなのか?
 では親に虐待されたり捨てられたりして、「愛」を人から受けた体験を持たない人はどうなの?
 さらに2〜4は働くことによって得られるんだとしたら、寝たきりの人や失業中の人はどうするんだ?
人は皆、幸せになりたいと願う。
人は皆、愛されることを求めている。
そのためには、褒められることをしよう。
次に、周りに役に立つことをしよう。
それを、必要とされるまでやり続けよう。
一生懸命、人のために動く事で、愛される、みんなに応援してもらえるようになる。

 全国を講演で飛び回る大山氏は、必ずそう話すそうです。
 でもそこで語られていることは、条件付きの愛じゃないですか。だから私はこれを読んだ瞬間気持ち悪くなったんだな。
 褒められることをしないと、役に立たないと愛されない、という人間社会の現実がそこに厳然と横たわっています。。

 子供の頃に両親に捨てられ、その後の人生でも身近な人に傷つけられ、心に深い傷を負いながらも奇跡的にキリストに出会い、クリスチャンとして今懸命に主を見上げて生きようとしている人が、私とほぼ同じタイミングでこの4項目の書き込みを見たそうです。
 そして即座にこう思ったそうです。

「何だ、この上から目線は あんたは不幸だって言われてるとしか思えない。」

 私は今教会のミニストリーでこのような傷を抱えた方々と向き合い、サタンとガチンコの戦いを強いられている真っただ中にいますので、この人の率直な受け止め方は至極当然だと思います。

 もう一度言います。
 この4項目は、環境を整えれば働くことの出来る障がい者を雇用する経営者の心得としてはパーフェクトかもしれません。しかし、これをすべての人に適用することは、ほめられ、役に立ち、必要とされるという経験のない人を無残に切り捨てることになると。

 では本当の「人間の究極の幸せ」とは何でしょうか?
 その答えは聖書にあります。
 それは、自分が無条件の愛を受けている存在であることを知る、ということであります。このことは、

 @環境に左右されない

 A境遇に支配されない

 B年齢に関係ない

 C永続する確信を本人に与える


ものです。死の前には人間はみな無力なものであり、絶対的な望みというものを持っていないのです。しかし、無条件の愛を知った者は、死を超越した望みというものを持つことができます。
 わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。 5:7正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。 5:8しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。 5:9わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。 5:10もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。
(ローマ人への手紙5:6〜10)

 聖書は、私たちが真の神を知っている、いないに関わらず、神の御子イエス・キリストを人としてこの世に派遣し、すべての人の神からの背きの罪の罰をこの方に負わせて、この方を救い主として信じる者すべてに救いを約束してくださいました。
4:9神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。 4:10わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。
(ヨハネの第1の手紙4:9〜10)

 まず、どんな人であっても、この世に生を受けている時点で、神から無条件に愛されているということに気付いて下さい。この愛は完璧な愛であり、私たちに条件を求めない愛であります。

 ではなぜそれなのに重度の障害を持って生まれたり、とんでもない親のもとに生まれて傷つけられたりなんていう不条理なことが起こるのでしょうか?聖書にこんな箇所があります。
9:1イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。 9:2弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。 9:3イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。
(ヨハネによる福音書9:1〜3)

 今目の前には、生まれつき目が見えずに、物乞いをして生きるよりないという不幸な人がいる。この不条理は、なぜ起こるのか。なぜこの人にこんな不幸な生涯が与えられているのか、納得できる答えを示してほしいと願って、イエスに弟子たちは問いかけているのです。
 イエスの答えは、弟子たちの問い、いわば「なぜこの世に不幸があるのか?」という問いに対する論理的な答えではありません。むしろ問いそのものを否定しているのです。そして問いそのものの方向性を変化させているのです。
 いわば今の不幸の原因など、どうでもいいと言われているようにも思えます。過ぎ去った過去に原因を究明してそれが何になるというのか。そうではなくこの人の不幸の意味を、目的を考えなさい。この目見えぬ人の確かに不幸なこの状態を、神がどのように用いられるか、この人を通して神はこれから何をなそうとしておられるのか、その神の未来に目を向けなさい。それがイエスが与えてくださる新しい物の見方ではないでしょうか。

 そしてイエスは、この人が不幸だなどと決め付けるな、とも言っておられるようです。そこには確かに神が与えた意味があり、目的があるのだと。そうしてイエスは、彼に近づかれます。不幸の原因を議論することよりも、今悲惨の中にいる人間を憐れみ、ご自分からまずそばに近づいてくださるのです。
 神はそんなことを教える前に、苦しむ者にまず近づいてくださり、抱きしめてくださいます。そして、神の未来を示してくださいます。
 あきらめしか見えない人間に、神の見ている希望を見させてくださって、前へ、未来へと目を向けさせる。そしてその人に与えられた苦悩の「意味」を教えてくれます。「神の業が現れるためだ」と、意味を、目的を教え、涙で疲れ切ってしまった人の手を取り、足を支え、その目的の成就に向かって共に歯を食いしばってくださいます。
 そのようにして、神から力と勇気を注がれて歩む信仰者の上に、思いを超えた神の業が現れ、やがて神の栄光があらわされます。それが神の方法であると確信するのです。

 クリスチャンは表面的に美しく見える言葉にすぐ反応してはいけません。またヒューマニズムに迎合してはなりません。
 常に聖書の真理に目を開き、聖霊の導きを祈り求め、イエスのように苦しむ者、悲しむ者の存在に敏感な者でありたい。そう思わされます。


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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
サタンの罠は巧妙です。
全ての基準は主のみことば、聖書の中から答えをいただかないと危険がいっぱいですね。気付きに感謝。
きょうこねぇ
2012/06/24 01:35
>きょうこねえさん
本当にその通りですね。1ペテロ5:8
「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。」
という御言葉が思い起こされます。
たま
2012/06/25 12:23

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