Tama’s ゴスペラー日記

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zoom RSS 教会のゴスペルミニストリーの変革

<<   作成日時 : 2012/05/01 01:20   >>

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4:2御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。 4:3人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、 4:4そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。 4:5しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。
(テモテへの第二の手紙4:2〜5)

 前回のブログでは、教会で行われているゴスペルミニストリーの弱点について少し述べさせていただきました。

1.牧師・伝道者が主体的に運営に携わっていないこと。

2.聖書のメッセージが定期的に語られていないこと。


 ざっくりとまとめるとこの2点です。もちろんしっかりそれが為されている教会もありますが、そうではない教会も結構あるということです。
 Gospel(福音)とは本来 God Spell(神の言葉)であり、Good News(良き知らせ)のことなのにそれが語られ、伝えられていないということになります。

 ではGospel(福音)の内容はどういうものでしょうか?
 これをすごーく簡潔にまとめると、救いの3ポイントになります。
1.唯一真であり、天地万物を創造された全能の神がおられる
 この神によって人間も造られました。しかも神の似姿で、神ご自身の息を吹き入れられて生きた者とされたのです。ですから神が造られた全被造物の中で人間だけが霊的な存在であり、神と唯一交わることの出来る存在です。
 神は人をご自身と交わることの出来る愛の対象として造ってくださったのです。

2.人間はすべて罪を持った存在である
 最初の人アダムとその妻エバはエデンという何不自由ない場所に住まわされました。しかも神のロボットではなく、自由意思を与えられた存在として。しかし彼らは蛇(悪魔の象徴)の誘惑に負け、自由意思を逆手にとって神から唯一禁じられていた「善悪を知る木の実」を取って食べてしまいました。
 これが人類最初の神に対する背きでした。これを聖書は「罪」と言います。
 「罪」の結果、人はエデンから追放され、一生の労働や生みの苦しみを持つこととなり、何よりもその裁きとして「死」が与えられてしまいました。
 神に背を向ける、神から離れるという「罪」の性質は以降人間のDNAの中に刻まれて現在に至っています。

3.イエス・キリストによる贖罪、そして信仰により救われる
 神は全く聖い方なので、人が神に背く、神から離れる性質のままでは裁きと死から免れる事は出来ません。そこで神は人間を愛するがゆえに、ご自身の子としての性質を持つイエス・キリストを神であるのに人として生まれさせ、十字架という刑罰によって人の罪を負わせられました。
 人はイエス・キリストこそが自分の罪を負い、自分の身代わりになって刑罰を受けて下さったと信じることで、神から罪の赦しを得ることが出来るのです。
 しかもイエス・キリストは死後3日目にからだを伴って復活されました。それゆえに彼を信じる者はその信仰によって罪赦されて永遠に生きる者とされるのです。

 この3点がすべてそろっていないとGospel(福音)ではありませんが、そのことを知っている人がゴスペルソングの歌詞を解説し、メッセージしなければ、「かっこいい」、「感動的な」、「美しい」、歌を大きな声でみんなとひとつになって笑顔で歌うことが出来た ハレルヤ で終わってしまいます。
  
 また日本のゴスペルミニストリーは、クリスチャンではない人に何とか教会に来てもらいたいと願いつつ行われていますから、教会の敷居を低くするために特に愛や癒しについて多く語られがちです。
 もちろんそれは真実ですから語られるべきことです。しかし神の愛は受け取らなければ意味がなく、受け取らなければ霊的な癒しもありません。

 冒頭に掲げたテモテへの第二の手紙4:3〜4に記されているように、耳触りの良い感動的な話や面白い話ばかりしていて、救いと裁きについて語らなければそれはGospel(福音)ではないのです。
 しかしこのことを語るには勇気がいります。
 誰しも「裁き」の話など気分が悪くなるし、聞きたくありませんから。でもイエス・キリストは多くのたとえ話をされましたが、そのほとんどの話が救いと裁きをセットにしたものであることにお気づきでしょうか?
 たとえば有名な99匹の羊と1匹の迷い出た羊の話。
15:4「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。 15:5そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、 15:6家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。 15:7よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。
(ルカによる福音書15:4〜7)

 なぜ迷い出た1匹の羊を見つけ出してこんなに羊飼いは喜ぶのでしょう?
 それは迷い出たら羊は狼などの動物に襲われるか、元の場所に戻る能力がないため餓死してしまうかで、絶対に生還することがないからなのです。だから探し出して見つかったらこんなに喜ぶのですね。
 羊飼いはイエス・キリストのことですから、イエスから離れていったら永遠の滅びに向うことだよ、という真理がそこにあるわけです。
 でもほとんどの場合は、迷った羊を探し出す愛についてしかスポットが当たりません。もちろんこれも素晴らしい真理ですが、両面が正しく語られなければGospel(福音)ではないのです。

 しかしこれはまだいい方で、牧師や伝道者が主体的にゴスペルミニストリーにかかわっておらず、ディレクターやリーダーも聖書の真理についてよく学んでいなければ、Gospel(福音)の片方ですら語られないこともあります。とても残念なことですが・・・
 その場合はどんな状態になるのか。

 まずみんなに歌ってもらうことが第一の目的になります。良いハーモニーを作り上げることや音楽としてのクオリティーをアップさせることが目的になりますね。その延長線上にはお披露目的なコンサート、イベントの開催。
 そしてメンバー同士の交流。福祉施設への慰問、地域のイベントへの参加といった社会貢献活動にも主眼が置かれます。
 そして

「みんなの一体感が最高でした〜

「お客様の声援、笑顔が素晴らしかった

「横のつながりが深まってますますみんなが好きになりました


 そんな感想で盛り上がったりします。
 ノンクリスチャンの人たちにとってこれらの経験はすごく大事だと思います。みんな良いことです。でもミニストリーとして教会がやっているのなら運営側やクリスチャンはこれだけで留まっていては絶対にいけません。
 ましてや、リハーサルの後やイベントが終わった後、「打ち上げ」と称して居酒屋などに行って飲み会をするくらいなら、そんなミニストリーはやめた方がいいです。
 それは教会ではなく、一般のサークル活動と同じだからです。

 これはかつて私自身が犯してきた過ちでもあります。聖書のメッセージは常に語っていただいていたにも関わらず、リーダーである私の未熟さゆえに世の価値観に迎合していた時期がありました。
 ヒューマニズム的な観点から言ったら、「そんなの律法的すぎると批判されるでしょう。
 でもミニストリーには人の生死がかかわっていることを忘れてはいけません。救いの裏側には裁きもあるのです。
 「愛」だけいくら語っていても救いとは直接関係なく、「神」を認めさせ、「罪」を示し、「悔い改め」を促して、「信仰」に導かなければ人は救われないのです。

 強制的に、人が嫌がるのに無理やり一方的に救いと裁きを語るのは愛と配慮がありませんが、聖霊の知恵と導きを求め、いつでも適切にGospel(福音)を語り伝えることの出来るミニストリーでなければ存在価値は少ない。
 教会はイエス・キリストをかしらとしたキリストのからだです。
 そのからだがゴスペルミュージックを通じて真のGospel(福音)を伝えていないのなら、からだを汚すことになりかねません。

 何とかしてゴスペルミニストリーに携わっている教会が祈り合い、励まし合って、愛する日本人の魂が一人でも多く救われるように仕えていきたいと強く願っています。


最後に・・・
これは特定の教会や団体を想定して批判している記事ではありません。ご理解いただければ幸いです。


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Tama’s ゴスペラー日記
2012/05/08 00:40

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内 容 ニックネーム/日時
ゴスペルは単なる歌ではありません。神様への賛美です。イエス様を個人の救い主として受け入れ、感謝するのがゴスペルであり、自分を喜ばせるものではありません。ゴスペルを歌う前にイエス様をご自身の救い主であることを信じてください。敷居を低くするためにゴスペルを使うのは正しくありません。先に信じている私たちが大胆に福音を語る責任があります。全ての人は義なる神様の前では罪人であり、イエス様は私の罪(神様を認めないこと)故に受けなければならない裁きの身代わりに十字架にかかられ死なれたこと、また3日目の朝に復活されたことを裁き(地獄)からの救いを明確に理解せずに神様に感謝することはできません。神様の愛は語るが、神様の義を語らない牧師先生や伝道者が多いことに危機感を持っています。イエス様は私たちが単に人生を楽しむために十字架で苦しまれたのではありません。滅び(地獄での裁き)からの救いのために血潮を流されたのです。ここに神の愛があるのです。
大阪のおやじ
2012/06/05 00:11
>大阪のおやじさん
アーメン。
ただ何もわからずにゴスペルを歌うことがきっかけで、救われる人がたくさん起こされることもご理解ください。
そのような人にキリストを紹介し、救いに導くのは教会・クリスチャンの務めですね。
たま
2012/06/05 09:24

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