Tama’s ゴスペラー日記

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zoom RSS 人はなぜ偶像を拝みたくなるのか?

<<   作成日時 : 2010/08/10 16:12   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 3 / トラックバック 0 / コメント 2

 仕事で行く海外とプライベートで行く海外では、物の見え方が違ってくるような気がします。
 今回のバンコク旅行では、妻と娘が初めての場所だったので、私自身は何度も行っているところですが1日はバンコク市内の定番観光スポットを、1日は郊外にある世界遺産の地・アユタヤ観光を組み入れました。

 バンコクでの定番は王宮、エメラルド寺院、ワットポー、ワットアルン(暁の寺院)です。
 そしてそれはどれも仏教関連の施設であるか、仏教の影響を濃厚に受けているもの。

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 これはエメラルド寺院の中にある仏塔のひとつですが、こんなに精巧に細かく美しく装飾してあり見事。しかし、おびただしい仏像がそこに埋め込まれています。
 またバンコクで最も歴史が古い寺だというワットポーには、全長50mもある涅槃仏があります。

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 釈迦が亡くなるところを現しているそうですが、右の肘で頭を支えてゴロンって横になってるその像は、寝転がってテレビでも見ているようです。金ぴかの巨大なそれはいつ見ても異様ですね。おまけに足の裏には、仏教の世界観が緻密な螺鈿細工で描かれており、暗澹たる気持ちになります。

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 人々はこの像の周りを巡りながら、壁際においてある無数の賽銭箱にお金を投げ入れて拝んでいくのがここの流儀のようです。

 ワットアルンは、チャオプラヤー川の対岸に渡し舟で行くところが楽しいんですが、確かに建物も美しいです。

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 のんびりと時が止まっているような独特の空気感がいかにもタイらしい場所です。 

 バンコク市内のこういった寺院を訪れるのは観光客が主体ですが、アユタヤの方に向かい、田舎の寺院にると観光客もいるけれど地元の人が一生懸命拝んでいる姿によく出くわします。 
 ワット・ヤイ・チャイ・モンコンでは、仏像に金箔を貼って床にひれ伏して祈りをささげる市民に多数遭遇。

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 さらにワット・マハタートには木の根っこに埋まってしまった仏像の頭っていうのがあるんですが、それに対して熱心に拝む人たち。

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 タイの仏教は上座部仏教(テーラワーダ仏教)といい、スコータイ時代にインドから発生し、スリランカ、ビルマ、カンボジア、ラオスなど南方ルートを通って伝わった仏教の一種。

 この世に生きることは苦しみであり、苦しみの原因になるのは執着する心。その執着を断つ最も効果的な方法は出家して僧侶として修行することである。

 つまり、出家して悟りを開いた者だけが救われるという考えを基に成り立っているんだそうです。だからタイではオレンジというか黄色の僧衣を着た僧侶を街のいたるところで見ます。
 マーケットでワイシャツを熱心に物色してたオレンジの僧侶もいたなぁ。そういえば。

 うーん。
 福音との隔たりが何と大きいことでしょう。

 僧侶になって修業を積まないと苦しみから逃れられない。それなのに人々は壮大な仏像を作り、またはおびただしい数の仏像を作り、ただの「物」にすぎないそれらにひざまずき、祈り、願い、すがる・・・。

 空しい。
 それらの偶像があまりにも見事なだけに余計に空しい。
 わざわいなるかな、木に向かって、さめよと言い、物言わぬ石に向かって、起きよと言う者よ。これは黙示を与え得ようか。見よ、これは金銀をきせたもので、その中には命の息は少しもない。               (ハバクク書2:19)

 どんなに魂を込めて人が技術の粋を結集して偶像を作ったとしても、それには何の力もありません。
 その表情などを見て畏敬の念を抱かせたりするのは、まやかしです。
 
 私が夏休みでバンコクに行ってきたのを知ったあるクリスチャンではない友人から、こんな質問を受けました。

 「タイの観光は仏教関係ばかりですよね。クリスチャンとしてどんな気持ちで見るんですか?」

 「偶像は単なる美術品、芸術品であり、その国の文化遺産だと思って見るよ。」

 私たちは聖書を基準にして物事を見、判断しなければいけませんね。
 あなたがたはよく知っておかねばならない。すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。         (エペソ人への手紙5:5)

 真理を知らなければ、唯一真の神を知らなければ、目に見える物にすがってしまうのが人間の弱さです。だからこそ神は「聖書」を私たちに与えてくださいました。
 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。(テモテへの第2の手紙3:16〜17)

 どんなに素晴らしい仏像も、戦乱や時の経過でどんどん壊され、風化していってしまいます。

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 しかし神の御言葉は何千年も読まれ続け、永遠に変わることがありません。

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コメント(2件)

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しかし神の御言葉は何千年も読まれ続け、永遠に変わることがありません。
>力強く心に響いてきました!

日本でも多くの偶像に、心を込めて必死にすがって拝んでいる方々を見るとき胸が痛くなります。

伝えていかなくては!
ハレルヤ!感謝します!
中畑友里
2010/08/13 15:05
>友里さん
拝んでいる人は「良いこと」と信じて行っているだけにいたたまれなくなりますよね。
でもクリスチャンでも偶像に無防備だったり、無知であるがゆえに心開いている人もいます。
だからこそ正しい聖書理解と、証し人としてふさわしい生き方が私たちに求められますね。
たま
2010/08/14 01:17

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