Tama’s ゴスペラー日記

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zoom RSS ヒロシマ 

<<   作成日時 : 2008/01/14 01:00   >>

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 昨日は能天気な広島ルポでしたが、実は2日目はホテルを出てまず向かったのが原爆ドームでした。この世界遺産は人として何度でも見ておかなければならない場所だという強い気持ちがありました。

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 1945年8月6日午前8時15分に原爆ドームから約200m東の上空580mで原爆が爆発。すさまじい爆風と熱線と放射線で、一瞬にして15万から20万の人々の命が失われたということを知らない人はいないでしょう。
 何とその瞬間、地上では温度が3000℃〜4000℃というから想像を絶します。

 今はのどかな感さえ漂う大田川沿いにたたずんだ私は、62年前のその現実に思いをはせました。
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                (現在の原爆ドーム)
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                   (被爆直後の原爆ドーム)

 まさにこの場所が阿鼻叫喚の生き地獄だったのだと・・・。
 戦争というのは元はといえば人間のエゴとエゴのぶつかり合い。その結果非戦闘員の大量虐殺という最悪の結果を招きます。それがいまだに世界の各地でやむことがないという現実。

 聖書で言う「罪」は「的外れ」という意味です。
 本来人間は創造主である神のみこころに沿って生きるべき者ですが、いつの間にか自己達成のために生きることが良い事だと錯覚してしまいます。
 要はベクトルの向きが「神」から「自分」に入れ替わってしまうわけです。これが「罪」。これは国と国の間であっても同様なことが言えるでしょう。その最悪の例が広島・長崎に投下された原爆であります。

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 私は胸にこみ上げてくるやるせなさと、ここで死んでいった人々の気持ち、愛する家族を一瞬のうちに失った人々の気持ちを思うと、その罪のあまりの重さに吐き気をもよおすほどでした。

罪の支払う報酬は死である。

 ローマ人への手紙6章23節の言葉です。
 この意味は罪を犯した者が、その罪を悔い改めずに神の前に立たされた場合(死んだ場合)、神の審判によって裁かれて永遠の死の宣告を受けるということです。
 この世の中での栄華や覇権を武力や権謀術策で手に入れたとしても、死後の悲惨な裁きを受けるとしたら何の意味があるのでしょうか?

 たとえどんなに主義主張が対立したとしても戦争は絶対にいけない。
愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。
                     (ローマ人への手紙12:19〜21)

 神の名の元に行われる聖戦などないのです
 私は広島の地に立ち、キリスト者として平和への思いを真剣に自らに問い、決意を新たにしました。
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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
私は小学生の頃5年間を広島で過ごしました。原爆ドームへは毎年、何千羽という折鶴を届けていました。
長崎の被爆地にも行きましたが、言葉に出来ない想いを感じますね。
akubi
2008/01/14 02:36
>akubiちゃん
鹿児島でずっと育ったんだとばっかり思っていたよ。広島・長崎もそうだけど、知覧の特攻隊の記念館も、沖縄の戦跡も、日本人なら必ず訪れて「平和」について考えなければいけないよね。
たま
2008/01/14 12:15

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